ブログトップ

公開日:

更新日:

10 min read

技術文化史

システム開発の実際(前編):派遣と受託の世界

システム開発の実際(前編):派遣と受託の世界のイメージ

ときは1988年、学生時代、大学を休学中に、システム開発会社にアルバイトとして入社した私は、 業務をする中で「人月(にんげつ)」という言葉を知った

派遣と受託

会社に入って、業務には「派遣」と「受託開発」の2種類があると知った。 システム開発は会社で行うものだと、勝手に思い込んでいたのだが、 実際には派遣される社員がほとんどだった。

なるほど。それで納得がいった。

小さな会社で、オフィスは15坪ほどの広さなのに、フロムAの求人記事には、勤務先が10か所くらい書いてあった。 それらは全部、派遣先だったのだ。

実際、先輩社員の話では、この会社には100人くらいの社員がいるが、みんな派遣されているとのことだ。 一度、年末の納会で全社員が集まった。 オフィスに入りきれなくて、狭いエレベーターホールに立っていた社員もいた。

会社にいる人たちは、派遣先の仕事が終わって、次の案件が決まるまで待機していることが多いそうだ。 でも、たまに設計書を書いている人もいた。

私が担当している案件が、会社始まって以来の受託案件だと聞かされた。 つまり、この案件を担当する私と先輩の二人以外の技術職は、管理職を除いて全社員が派遣要員だった。

つまり「ソフトウェア開発会社」とは、技術者専門の人材派遣会社だったのだ。

人材派遣ビジネスの実態

社長が鹿児島出身だったためか、社員も鹿児島出身が多かった。 事務のアルバイトの女子大生も、たまたまだろうが、鹿児島出身だった。 おしゃれで、美人で、スタイルもよく、人当たりもいい女性だったので、社員たちには人気だった。 だけど彼氏はいないと言っていた。休憩時間に聞いてみた。

「どんな男性が好み?」
「うーん、見た目はあまりこだわらないけど、優しい人がいいな。」
「そうなんだ。」

彼女が思い出したように付け加えた。

「あ、そうそう。おばあちゃんがね、会津の男だけはダメだって!おばあちゃんのおじいさんが会津に殺されたからって、いつも言ってる。」

まさか100年以上前の戊辰戦争(1868~1869年)の恨みが現役だとは…

ときはバブル、IT業界は空前の人手不足だ。メーカーは「未経験でも若手でも人手が欲しい。金ならある。」そんな時代だった。 大手企業が若手技術者を大量採用するニーズが旺盛で、社長は自身の出身地である鹿児島県内の専門学校を 積極的に訪問していた。「若いうちに東京で働きませんか?」という単純な言葉が、 当時は大きな説得力を持っていた。

会社から離れた千葉県内に、築50年くらいの風呂無し木造アパートを1棟買いし、押入れをつぶしてシャワールームを設置して、寮として使っていた。 上京した新卒社員は、みんなそこに住んでいた。 東京のワンルームに住むという言葉に高揚していた彼らが、寮の部屋を見て、がっかりしていたのを覚えている。

「これがワンルーム?」

うん、それに千葉県だしね。

派遣ビジネスの構造

なので、誰かが派遣先に出社しなくなっても、寮の誰かに言づければ、すぐに連絡が取れた。 当時は携帯電話が普及していなかったし、固定電話の設置にも電話加入権という、当時は7~8万円もしたが、今では紙屑のようなものが必要だった。 なので、寮には電話が無く、派遣先の社員の勤務中に電話して連絡を取っていた。

派遣ビジネスの収益構造は明確だった。 未経験者でも一人当たり月40万円の派遣単価で、初任給は15万円程度。 会社の粗利は一人当たり20万円以上になる。 50人の技術者を抱えれば、月に1,000万円の粗利が見込めた。 これがバブル期のIT業界だった。

社長が毎月のように外車を買い替えるわけだ。

社長の失踪騒動

しかし、若手は無尽蔵にいるわけでもない。それでも仕事は増える一方だったらしい。 その上、金余りバブルの社長はフィリピンパブにハマっていた。 年末年始もフィリピンに行っていた。 ところが、年明け数日たっても社長が会社にこない。自宅に電話しても誰も取らない。連絡がとれない。

さらに会社には女性から英語で「社長はどこだ?」と電話がかかってきた。 総務部長が私に電話を渡す。無茶ぶりだ。自慢じゃないが、国語の偏差値は72だが、英語は36だ。 社長は会社にいない、どこのいるのか私のほうが知りたい。 とっさに口から出た英語は”He is gone!”。ぶちっと電話を切られた。

“He is gone.” は時として「彼は死んだ」というニュアンスでも使われる。 ビジネスの場面としては不適切な表現である。

何があったのだろうかと思っていたら、数日して会社に電話があった。 フィリピンからの帰り、成田空港で検疫に引っかかり、赤痢だかペストの疑いで強制入院させられたとのことだった。 空港からそのまま隔離病棟に連れていかれたために、連絡が取れなかったと話していた。

オフショア開発の幕開け?

1990年代初頭、日本のIT業界では人材不足が深刻化していた。 人件費の安いアジアへの開発委託は、その解決策の一つとして注目されていた。 しかし、当社の場合は少し異なっていた。

2月になると、派遣先が決まらない待機社員たちが、 設計書に「フリガナ」を振る作業を始めた。

「何してるの?」
「設計書にフリガナを振ってる」
「なんで?」
「なんか、フィリピンの会社に仕事を出すらしくて、フィリピン人が漢字を読めないからフリガナつけろって。」
「どういうこと?」
「社長がフィリピンパブ仲間とマニラに開発会社を作ったらしいよ。」

数日後、会社で社長が熱く語っていた。

「フィリピンは素晴らしい!日本で東大に当たるマニラ大学の優秀な卒業生を月給3万円で雇えるんだ!」

当時の私は、フィリピンに会社を作ったのは、会社が儲かるというよりも、社長がフィリピンに行く理由が欲しいだけなんじゃないかと思っていた。 今でも真実は知らないし、興味もない。